【重要文化財・世界遺産|御師・小佐野家住宅】 行き方、見学のしかた (山梨県)
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How to get House of The Osano Family ("Oshi" Lodging House)
A part of World Heritage:Fujisan, Sacred place and source of artistic inspiration
こちらのページでは、国の重要文化財に指定されたオリジナルの小佐野家住宅について解説しています。
小佐野家住宅の見学用復原施設については、こちらのサイトをご覧ください。
アクセス情報
見学用ピンポイントマップ
公共交通機関
駐車場
見学情報 内部公開しているの?
訪れた時の様子 画像
小佐野家住宅の説明
小佐野家住宅は、黒マーカー5
【公共交通機関】
徒歩1分のところに、富士急行バスの「横町」バス停があります。
地図・黒1
富士急行 富士山駅から バス
[乗車時間] 4分
[運賃] 240円
[運行頻度] 1時間に1〜2本
または
富士山駅から徒歩で、約12分(1km)
JR御殿場駅 富士山口から バス
[乗車時間] 約1時間
[運賃] 1,390円
[運行頻度] 1時間に1〜2本
富士急行バスの時刻表検索は、NAVITIME バス乗り換え案内、Google Map ルート案内機能が対応しています。
また、関東・関西各地から、高速バスも運行されています。
【駐車場】
小佐野家住宅は現在、住居として使われており、見学は受け付けていません。2021.1
そのため、見学者用の駐車場はありません。
門柱、現地案内看板、タツミチと呼ばれる通路などを見学したい場合は、
小佐野家住宅から徒歩約6分(500m)のところに、資料館として一般公開されている重要文化財の御師住宅、「旧外川家住宅」があり、そちらの無料駐車場を使うのがオススメです。
地図・赤1
なお、小佐野家前の国道137号線は駐車禁止で、路上駐車はできません。
【見学情報】
小佐野家住宅は現在も住居として使用されており、建物の見学はできません。
特別公開の情報もありません。2021.1
入口がある国道137号線沿いに、重要文化財であることを示す案内看板があります。
地図・黒4
元画像(8.6MB)
道のりで約3km離れたところに、見学用の復原された建物があり、内部も含め一般公開されています。
地図・黒5
詳細は、こちらのサイトをご覧ください。
復原住宅とオリジナル住宅の間は、路線バスで行き来できます。
富士急行バス
横町 バス停(地図・黒1)
↓ ↑
↓ ↑ 210円、5分
↓ ↑
サンパークふじ前 バス停(地図・黒6)
バスの時刻表検索は、Google Map ルート案内機能、または NAVITIME バス乗換案内 を使うと便利です。
運行頻度は、1時間に1〜2本。
また、500mほど離れたところには、内部見学可能な御師住宅、旧外川家住宅があります。
無料駐車場もあり、オススメです。
【訪れた時の様子】 2020.12
国道から、敷地入口の門柱。
地図・黒4
小佐野家は、堀端屋という屋号を持っています。
門柱の場所から、「タツミチ」と呼ばれる通路を奥に入って、中門の前まで来ました。奥に主屋が見えます。
近所の別の御師住宅前にあった、御師を説明する案内看板。
【小佐野家住宅の説明】
小佐野家は、室町時代末期(16世紀半ば)ごろから続くとされる、富士山御師(おし)の家です。
御師とは、富士山を信仰する人たち(富士講)に宿を提供し、祈祷を行い、教義を指導するなど、富士登山に関わる一切の世話をする人々のことで、富士吉田の地にはかつて、多くの御師の家が存在していました。
この建物は、江戸時代末期の1865年ごろに建てられたとされています。家の中には祈祷用の立派な神殿があります。
また敷地は、17mの間口に対して145mも奥行きがある細長いもので、この辺りでは典型的な御師住宅のものです。敷地には、玄関に至る前に禊(みそぎ)を行う小川や、富士講から奉納された門柱や石灯籠があります。
昭和51年(1976年)に、国の重要文化財に指定されました。
また平成25年(2013年)には、「富士山 - 信仰の対象と芸術の源泉」の構成要素として、世界文化遺産に登録されました。
徒歩圏内に、同じく重要文化財に指定され、世界遺産に登録されている御師の家、旧外川家住宅があります。
こちらは博物館の付属施設として、一般公開されています。
富士山の歴史と信仰
富士山は、その山容の美しさから日本一の山、名山と讃えられてきました。しかし一方では、古来より噴火の猛威をふるう火山として人々には畏敬の念をもって崇められ、山頂には神仏が住む霊山として、山岳信仰の対象とされてきました。そのため、繰り返す噴火を鎮めるために浅間大神(あさまのおおかみ)を祀ったのが浅間信仰の始まりとされています。
富士信仰の当初の形態は、麓から山体を仰(あお)ぐ、遥拝(ようはい)信仰でした。平安時代以降は、仏教の影響により修行のために山内に分いる修験者(しゅげんじゃ)が増え、遥拝する山から修行の山へと変化していきました。中世(鎌倉時代・室町時代)になると修行者以外にも富士山を信仰して登山をする一般の人々(道者 どうしゃ)が増えています。「勝山記」(妙法寺記)明応9年(1500年)の条に、「富士への道者参ること限りなし」と富士登山の盛況ぶりが記されています。こうして富士山は、時代とともに修験者による修行の山から信仰による一般の参詣登山という形に移行していきました。
富士山の信仰が一般的に受け入れられたのは、室町時代末期に長谷川(藤原)角行が、富士信仰を独自の考えをもって説いたからとされています。その後の弟子たちによって受け継がれ、六世の食行身禄(じきぎょうみろく)や村上光清らの行者の活躍により、江戸時代後半、富士講として隆盛を極めました。
〜旧外川家住宅で配布されているパンフレットより
このページは、以下の記述などを参照しています。
富士吉田市観光ポータルサイト
文化庁国指定文化財等データベース
201218
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